抹茶にまつわる不思議な状況

林亮次01_02.jpg 多分、抹茶だけだと思うんです、「○○道」と強く結びつかれたイメージを持たれているのは。他の喫茶の類、例えば煎茶なんかにしても、煎茶道というものがありながら、煎茶を飲むのに煎茶道を意識する人は殆どいないと思いますし、ましてや紅茶やコーヒーになると「○○道」というような明確なものはありません。どうしてこんな事になってしまっているのでしょう。

 抹茶=茶道というイメージがあるために、茶道をしない一般庶民の間では、抹茶をお湯に溶かして飲むスタンダードな抹茶の楽しみ方よりも、抹茶味のチョコレートとか抹茶味のケーキとか、そういう抹茶の派生物の方が広く普及しているように見えます。煎茶や紅茶・コーヒーでは、こんな事にはなっていません。この抹茶にまつわる状況というのは、私にはちょっと異常に思えます。

 茶道の側からしてみても、何も稽古の場面にまで本当の抹茶を使う必要はなく、安価な粉末緑茶で十分なんではないでしょうか。高価な抹茶を使うのは、本当に客を接待する時だけで良いような気がします。

 ・・・そう、「接待」というのがキーポイントなのかも知れません。「茶道」というのは一種の「接待術」というような側面もありますから、大事な客を接待するには、安価な茶ではなく、高価な抹茶が必要であったという事かも知れません。また、高価な抹茶は接待の場面でしか使われず、そうした接待の場では接待術である「茶道」が必要であったと・・・。これで、抹茶=茶道というイメージが築き上げられてきたような気がします。

 でも、現代社会に於いて抹茶は、お茶の中では高価であるのは確かですが、何も一般庶民では手が出せないような代物という訳ではなく、ちょっとした贅沢とか楽しみの範疇で飲めるようになっています。それなら、別に抹茶を接待用の特殊なお茶と考えるのではなく、ちょっと高いけど美味しいお茶として日常的に普通に楽しめばいいと思うのです。接待術と結びつけて抹茶を捉える必要性は全くない・・・。

 他方、茶道には精神修養のための修行という側面もあります。そういう側面を重視するなら、贅沢な抹茶など使わず、むしろ低廉な粉末緑茶を使うべきではないでしょうか。いや、そもそも人生にとって必須ではない「お楽しみ」である喫茶などせずに、お湯とか水を使った方が修行になるのではないかとさえ思ってしまいます。倹約質素な精神修養の場と、高価で美味しい贅沢な抹茶とは、余りにフィットしない組み合わせだと感じます。

 最近、「カジュアル」茶道という言葉を聞く事があります。・・・う~ん、カジュアルにするなら、別に茶道じゃなくても良いような気がします。ここでもやはり「抹茶=茶道」という作られたイメージに縛り付けられているのではないでしょうか。「道」など気にせず、抹茶を楽しめばいいと思います。

 ・・・とか何とかブツブツ言っておりますが。(笑)

 先日、某茶道具屋で、未だ飲んだ事のないブランドの抹茶を買おうとした時に、店員さんから「流派はどちらですか。○○流○○家のお好みとかありますから、それに合わせるという事もあろうかと思います。」なんて言われたんです。それで私はちょっとムッとして「茶道をやらなきゃ抹茶を飲んじゃいけないのかよ!」とか「○○家お好みとかって、結局『我が流派の名前を抹茶の名前で使って良いから、名前の使用料を払いなさい』っていう、所詮は金の話じゃないか」とか心の中で叫びながら、「いやぁ、自分で好きで飲んでるだけですから・・・。」と愛想笑いを浮かべながら適当にそこそこの価格の美味しそうな銘柄を選んだのでありました。
 こんな事があって、今日の記事となった訳です。ハハハ。(笑)

 という事で、2019年の記事は今回で最後です。来年も、所有している茶碗の記事をメインにアップして行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 それでは、皆さん、良いお年を!

動画紹介「樂家15代当主 樂吉左衞門-樂茶碗に込められた伝統を語る」



 大変に興味深い動画を紹介します。十五代・楽吉左衛門が楽茶碗について語ったビデオです。

 この語りの中で、私にとって重要な言葉が幾つか出てきます。
 「微妙な揺らぎ」
 「揺らぎの中に自然と一体になって行く思想が入って行く」
 「揺らいでいる物というのは、人間の心をそこに託す事が出来る」
 「焼物というのは、最終は自然に託すという姿勢」
 「非常に強く出た自己表現の部分を、最後は自然の火の中、自然の中に託する」
 「そこには、同じという事はないし、偶然性の中に晒されるし、大変なハプニングの結果がそこに生まれて来る」
 「(焼物というのは)自我の世界ではなくて、何か自我を越えた祈りの世界と繋がっている」

 私自身、抹茶茶碗の魅力は、人の計画性や規則性と自然の偶然性や不規則性が混ざりあった所に生まれる美しさや癒しの風景だと感じています。十五代・楽吉左衛門の上記の言葉は、私のそうした感覚を別の言葉で言い表しているように感じます。

 そして、十五代・楽吉左衛門の言葉の中には「侘び・寂び」という単語が全く出て来ません。私が抹茶茶碗に感じる美しさは、「侘び」でもなければ「寂び」でもない。そもそも、他の茶よりも明らかに高価な抹茶を、他の器よりも明らかに高価な抹茶茶碗で喫する事自体、その時点でもう既に「侘び」てもいなけりゃ「寂び」てもいない、生きて行く上で必須だとは言えない「趣味」「道楽」「遊び」の世界、派手で楽しい行いだと私は感じています。抹茶茶碗の美しさは、私にとっては「侘び・寂び」ではないのです。十五代・楽吉左衛門の言葉は、私のそうした感覚も言い表しているような気がします。

 まぁ、そんなこんなで。ちょっと余談でした。(笑)

はじめに その3

波多野善蔵01_01 そういう訳でこのブログを始める事にしました。

 このブログでは、主に抹茶茶碗について書きます。メインは、私が所有する茶碗について写真で紹介しつつ、その記事を書いた時点での私の所感を、出来るだけ詳細に記録して行く事です。このブログは、私の私的なコレクション目録を兼ねていますので、そういった内容になります。

 また、茶碗の記事の他に、茶碗や陶芸、抹茶に関わる雑多な事柄についても、その時点での私の思いを書いて行く事にもなりそうです。この辺、言いたい事は山ほどあります。・・・いや、そんなにないかも。(笑)

 ブログの更新は、週に1回を目標にしています。ネタがそんなに沢山ある訳ではないので、これくらいのペースが限度でしょう。また、一つの茶碗を一つの記事で紹介するのではなく、一つの茶碗を複数の記事に分けてアップする予定です。ブログ更新の手間や負担を軽減し、なるべく長く続けて行きたいですし、かと言って大雑把な記事にはしたくありませんから、そういう方式にしたいと思います。

 あ、それと、人名については失礼ながら全て敬称を略させていただきます。人名は主に茶碗の作者として出て来る予定なのですが、お若い方もご高齢の方も、既に亡くなられた方、殆ど歴史上の人物と言える方もいらっしゃる訳で、それぞれに敬称を使い分けるのも、どうもしっくり来ないと感じるからです。ご了承下さい。

 ・・・という事で、前置きが随分と長くなってしまいましたが、このブログのコンセプトはご理解頂けましたでしょうか。
 では、次回からいよいよ本編に入って行きたいと思います。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。m(__)m