茶道具って?

林亮次01_02.jpg 最近、少し考えてしまう事があります。それは「茶道具って何?」という問題です。

 茶道具というのは、お茶を楽しむための道具=「茶の道具」であるというのが一般的な理解だと思うのですが、時々そうではなく、茶道のための具=「茶道の具」になっているのではないかと思われる事があります。

 例えば、床の間に飾る掛け軸なんかは、お茶を喫するにあたっては何の関係もなく、全くお茶の道具ではありませんが、茶道に於いて茶室で接客する場面に於いては、接待をするための演出の一つとして扱われているようです。即ち、接待術としての茶道の中で、具の一つとして使われているように見えます。掛け軸も、こういう場面では「茶道の具」=「茶道具」なのです。

 私は絵画や掛け軸の類には興味がありませんし、茶道にも興味がありませんから、掛け軸が茶道具なのかどうかは、実際どうでも良いです。でも、掛け軸を茶碗に置き換えてみると、少し話がややこしくなります。

 茶道では、当然お茶を口にするための道具=「茶の道具」として茶碗が使われますが、この茶碗も客人を持て成すための演出の一つとして、季節に合わせた絵柄の物を選んだり、何某かの意味を持たせた物を選んだりします。茶道に於いて茶碗は「茶の道具」であると伴に「茶道の具」でもある訳です。

 一方、私は抹茶が好きですし、それ以上に抹茶茶碗が好きです。殆ど抹茶茶碗を楽しむために抹茶を点てていると言っても良いくらいです。茶碗は単なる道具ではなく、それ自体が目的化しているのです。ですから、私にとっての茶碗は、お茶を楽しむための道具=「茶の道具」ではなくなっています。かと言って、私は茶道には興味がありませんし、客人を接待する事にも興味がありませんから、茶碗は「茶道の具」とはなりません。
 私にとっての茶碗は、「茶の道具」でもなく、「茶道の具」でもない訳です。

 一般に茶道具と言われる茶碗は、茶道に於いては「茶の道具」であると同時に「茶道の具」でもあります。逆に、私にとって茶碗は「茶の道具」でもなければ「茶道の具」でもありません。でもやっぱり私にとっても茶碗は「茶道具」ではあります。

 果たして「茶道具」とは「茶の道具」なのか「茶道の具」なのか。はたまた、そうした理解を超えて、「茶道具」という独立した言葉なのか・・・。
 そんな事が頭の中を駆け巡る年末なのでありました。(笑)

 という事で、本年の記事更新は今回で終了です。来年は新年四日から更新を再開する予定でいます。
 それでは、皆様、今年もお世話になりました。良いお年をお迎え下さい! (@^^)/~~~

おわり

抹茶にまつわる不思議な状況

林亮次01_02.jpg 多分、抹茶だけだと思うんです、「○○道」と強く結びつかれたイメージを持たれているのは。他の喫茶の類、例えば煎茶なんかにしても、煎茶道というものがありながら、煎茶を飲むのに煎茶道を意識する人は殆どいないと思いますし、ましてや紅茶やコーヒーになると「○○道」というような明確なものはありません。どうしてこんな事になってしまっているのでしょう。

 抹茶=茶道というイメージがあるために、茶道をしない一般庶民の間では、抹茶をお湯に溶かして飲むスタンダードな抹茶の楽しみ方よりも、抹茶味のチョコレートとか抹茶味のケーキとか、そういう抹茶の派生物の方が広く普及しているように見えます。煎茶や紅茶・コーヒーでは、こんな事にはなっていません。この抹茶にまつわる状況というのは、私にはちょっと異常に思えます。

 茶道の側からしてみても、何も稽古の場面にまで本当の抹茶を使う必要はなく、安価な粉末緑茶で十分なんではないでしょうか。高価な抹茶を使うのは、本当に客を接待する時だけで良いような気がします。

 ・・・そう、「接待」というのがキーポイントなのかも知れません。「茶道」というのは一種の「接待術」というような側面もありますから、大事な客を接待するには、安価な茶ではなく、高価な抹茶が必要であったという事かも知れません。また、高価な抹茶は接待の場面でしか使われず、そうした接待の場では接待術である「茶道」が必要であったと・・・。これで、抹茶=茶道というイメージが築き上げられてきたような気がします。

 でも、現代社会に於いて抹茶は、お茶の中では高価であるのは確かですが、何も一般庶民では手が出せないような代物という訳ではなく、ちょっとした贅沢とか楽しみの範疇で飲めるようになっています。それなら、別に抹茶を接待用の特殊なお茶と考えるのではなく、ちょっと高いけど美味しいお茶として日常的に普通に楽しめばいいと思うのです。接待術と結びつけて抹茶を捉える必要性は全くない・・・。

 他方、茶道には精神修養のための修行という側面もあります。そういう側面を重視するなら、贅沢な抹茶など使わず、むしろ低廉な粉末緑茶を使うべきではないでしょうか。いや、そもそも人生にとって必須ではない「お楽しみ」である喫茶などせずに、お湯とか水を使った方が修行になるのではないかとさえ思ってしまいます。倹約質素な精神修養の場と、高価で美味しい贅沢な抹茶とは、余りにフィットしない組み合わせだと感じます。

 最近、「カジュアル」茶道という言葉を聞く事があります。・・・う~ん、カジュアルにするなら、別に茶道じゃなくても良いような気がします。ここでもやはり「抹茶=茶道」という作られたイメージに縛り付けられているのではないでしょうか。「道」など気にせず、抹茶を楽しめばいいと思います。

 ・・・とか何とかブツブツ言っておりますが。(笑)

 先日、某茶道具屋で、未だ飲んだ事のないブランドの抹茶を買おうとした時に、店員さんから「流派はどちらですか。○○流○○家のお好みとかありますから、それに合わせるという事もあろうかと思います。」なんて言われたんです。それで私はちょっとムッとして「茶道をやらなきゃ抹茶を飲んじゃいけないのかよ!」とか「○○家お好みとかって、結局『我が流派の名前を抹茶の名前で使って良いから、名前の使用料を払いなさい』っていう、所詮は金の話じゃないか」とか心の中で叫びながら、「いやぁ、自分で好きで飲んでるだけですから・・・。」と愛想笑いを浮かべながら適当にそこそこの価格の美味しそうな銘柄を選んだのでありました。
 こんな事があって、今日の記事となった訳です。ハハハ。(笑)

 という事で、2019年の記事は今回で最後です。来年も、所有している茶碗の記事をメインにアップして行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 それでは、皆さん、良いお年を!

動画紹介「樂家15代当主 樂吉左衞門-樂茶碗に込められた伝統を語る」



 大変に興味深い動画を紹介します。十五代・楽吉左衛門が楽茶碗について語ったビデオです。

 この語りの中で、私にとって重要な言葉が幾つか出てきます。
 「微妙な揺らぎ」
 「揺らぎの中に自然と一体になって行く思想が入って行く」
 「揺らいでいる物というのは、人間の心をそこに託す事が出来る」
 「焼物というのは、最終は自然に託すという姿勢」
 「非常に強く出た自己表現の部分を、最後は自然の火の中、自然の中に託する」
 「そこには、同じという事はないし、偶然性の中に晒されるし、大変なハプニングの結果がそこに生まれて来る」
 「(焼物というのは)自我の世界ではなくて、何か自我を越えた祈りの世界と繋がっている」

 私自身、抹茶茶碗の魅力は、人の計画性や規則性と自然の偶然性や不規則性が混ざりあった所に生まれる美しさや癒しの風景だと感じています。十五代・楽吉左衛門の上記の言葉は、私のそうした感覚を別の言葉で言い表しているように感じます。

 そして、十五代・楽吉左衛門の言葉の中には「侘び・寂び」という単語が全く出て来ません。私が抹茶茶碗に感じる美しさは、「侘び」でもなければ「寂び」でもない。そもそも、他の茶よりも明らかに高価な抹茶を、他の器よりも明らかに高価な抹茶茶碗で喫する事自体、その時点でもう既に「侘び」てもいなけりゃ「寂び」てもいない、生きて行く上で必須だとは言えない「趣味」「道楽」「遊び」の世界、派手で楽しい行いだと私は感じています。抹茶茶碗の美しさは、私にとっては「侘び・寂び」ではないのです。十五代・楽吉左衛門の言葉は、私のそうした感覚も言い表しているような気がします。

 まぁ、そんなこんなで。ちょっと余談でした。(笑)